宇城憲治師に学ぶ 心技体の鍛え方

宇城憲治師に学ぶ 心技体の鍛え方_a0002763_5105063.jpg『宇城憲治師に学ぶ 心技体の鍛え方』
・著者:小林信也/監修者 宇城憲治
・2006年12月28日 第1刷発行
・発行所:草思社

先日、別の本を探しに書店へ行った際に見つけた。
面白くて、一気に読んだ。

僕の武道観や武術観は、合気道の先生にご指導いただいたことや合気道の稽古で会得してきたことが基本となっているが、この著書の監修者である宇城憲治師の影響も強く受けている。

宇城師を初めて知ったのは、テレビ番組であった(番組名は忘れた)。
ヘビー級ボクサーの渾身の一撃を無力化したり、現役ボクサーの素早いパンチをことごとくかわしたり、現役アメフト選手の猛タックルを簡単に跳ね返したり、その術技に驚嘆した。
その時に思い出したのが、合気道の先生に技をかけられたときのことである。
先生の技は抵抗ができず、なぜ崩れたり倒れたりするのかわからないことがあるが、それと共通するものがあると思った。

以来、宇城師が実践される武術に興味を持ち、著書を数冊拝読し、その内容に大いに感銘を受けた。
そして、それまで合気道の先生にご指導いただいた内容や、稽古を通じて自分なりに感じてきたことが、徐々にひとつに収束され、自分の目指す道が見えてきたように感じた。



武道とはひとことでいうと、「より良く生きるための心のあり方を修練する道」であると僕は考えている。
そして、武道は武術鍛錬の積み重ねの上に成り立つものである。
武術とは、どのような状況下にあろうとも自分を守り、相手を制する命をかけたやり取りのための術技である。
武術は常に真剣勝負であり、負けは死を意味する。
生命をかけた一瞬の攻防は、頭で考えて動いていては遅すぎる。
相手の攻撃を受ける以前に相手に入り、相手を無力化し、相手を制しなくなてはならない。
それができるよう心身を研ぎ澄まし、戦わずして勝つ境地、何者とも争わない絶対の境地に至ることを目指すのが、武術の稽古ではないだろうか。
そこを目指さない限り、それは単なる習い事であり、武道ではないと考えている。

宇城師は、沖縄古伝空手心道流の師範である。
と同時に、エレクトロニクス分野における開発者、経営者として国際的に活躍されて来られたビジネスマンでもある。
宇城師がおっしゃるには、武術における生命をかけたやり取りも、開発や経営も、真剣勝負という意味では同じとされている。
武術の稽古を真剣にやってきたから、数百億をかけた国際ビジネスの世界で生き抜いてこられたと・・・

武術で得たことは、ビジネスや日常生活だけでなく、スポーツや音楽、芸術、あらゆることに生かすことができる。
実際に、宇城師は武道の稽古指導のみならず、スポーツ選手の指導や企業経営に関するアドバイスなどもやっておられ、いずれもめざましい効果をあげてこられているそうだ。
どうしてそのようなことができるのか。
以下、同著p.114より引用させていただく。
事実、真実、真理

宇城師が、自分の手のひらを掲げてこう話す。
「指が事実、手のひらが真実、手首の部分が真理としたら、いまの日本は事実ばかりに目が行ってしまっている。自分たちの分野のことばかり言って、どの分野にも共通する真実を理解していない。武術を学ぶということは、真理を根源とした真実を学ぶことです。真実を学べば、すべてに通じます。だから、どの分野にも助言をすることができるのです」
難しいことをいうようで恐縮だが、この“真理を根源とした真実を学ぶこと”こそが、武術や武道の稽古を日常に役立てることであると思う。
自分がそれを実践できているとは言いがたいが、歩むべき道は見えてきたように感じている。
by hotshark | 2007-01-14 05:10 | 本について
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