本日の稽古日記 6月20日(遊天会での稽古)

先週より、空手道の稽古に通っている。

なぜ合気道をやっているのに、空手道の稽古に通うの?と他者からは疑問を持たれる。
それは、本当の意味での「合気道」を究めていきたいからである。
「術」の練磨を積み上げる中で、「道」を見つけたいという思いがあるからである。

枚方合気道同好会で合気道の稽古を始めて、今年の秋でまる10年になる。
まったくの武道初心者で合気道を始めて、10年かかって、なんとか合気道らしき動きができるようになってきた。
そして、合気道が何であるか、ようやくその入口がぼんやり見えてきたような気がしている。
その入口に近づくには、術を練磨する以外に方法はなく、そのためには自分の身体を使って繰り返し稽古する以外にない。

僕が練磨したいのは、合気の術である。

この世に絶対的に存在するふたつの力。
どこの誰にも例外なく作用するふたつの力。
それは、「重力」と「呼吸力」である。
これを素直に感じ取り、従い、自在に使うこと。
それが合気の術ではないかと考えている。

合気の術の体得を通じ、自由で自然な自分に近づく、本当の自分に気付く。
それが道につながる、そんな感じがしている。

しかし、それはあくまでもイメージである。
最初に書いたように、今はようやくその入口が見えてきたかな、という感じである。
そこから先へ進むには、週一回の稽古だけでは、圧倒的に稽古量が足りない。

一方で、時間的、経済的、社会的な制約もある。
さて、どうしたものかと悩み焦っていたときに、このブログをご覧になっていたある方が、ある空手道場を教えてくださった。
(※経緯については、本日の稽古日記 5月31日(「尚志会」にて体験稽古)のコメントをご参照いただきたい)

>鍵コメント様、本当にありがとうございました、心より感謝しております。



さて、僕が通い始めたのは、江上空手道と呼ばれる流派だ。
江上空手道とは、空手道の祖である船越義珍先生の松濤館流をベースに、江上茂先生がより純粋にあるべき姿を求め、確立された流派。
僕はそんな風に理解している。

多くの現代武道としての空手とは異なり、試合はやらない。
実践と伝統に裏打ちされた「型」を徹底的に稽古することにより、自分と向き合い、術を体得し、道を究めていく。
そんな流派だと思う。
「カラテ」ではなく「空手道」。
宇城憲治先生の影響もあり、以前より僕がやりたかったことだ。

稽古時間は短いのだが、かなりきつい。

稽古参加者は、僕以外は全員黒帯である。
江上空手道を長年稽古されてきた方もおられるし、以前に別の道場で稽古されていた方もおられる。

最初に15分ほどかけて、丹念に柔軟体操を行なう。
まずは、ここでつまづいた。
脚が開かないのである。
左右の開脚、前後の開脚が、ほとんどできない。
おそらく、股関節が固まってしまっているのであろう。
時間をかけてほぐすしかない。

基本となる立ち方である、騎馬立ちと前屈立ちの稽古。
芯が通っているか、腰が十分に落ちているか、全身が脱力できているか、身体が前を向いているか、目線は遠くを見ているか・・・
徹底的に細部をチェックする。
しかし、僕はあちこちに力がはいり、数十秒立っているだけで、脚がガクガクしてくる。
いかに自分の身体が歪んでいるか、そして武術的でないかを思い知る。

突き、蹴りについては、手足や肩の力を抜き、呼吸力が最大限に発揮されるよう稽古する。
先生のご指導によると、身体の動きに伴ってぽーんと遠くに放り出すように突きや蹴りを放つのだが、やはり手足に力が入る。
これまたみっともないくらいに、ぎこちない動きになる。

情けない話だが、本日の稽古はめまいがし、吐き気をもよおすくらいにきつかった。
すべての動作に、力みがある証拠だ。
でも、ここを乗り越えないと、先へは進めない。
だから、しんどくても、充実感が非常に高く、稽古への参加意欲は高まるばかりである。

幸いここの道場でも素晴らしい方々にめぐりあえた。
まったくの空手道初心者である僕をあたたかく迎え入れてくださり、懇切丁寧にご指導くださることに、心より感謝をしている。

なお、ご指導くださっている先生は、合気道も長年修練されているそうである。
また、最高師範である江上茂先生も、植芝盛平開祖のもとで合気道の修行をされていたと聞いている。

これからも真摯な気持ちで自分に向き合い、江上空手道の稽古を続けたいと思う。
by hotshark | 2006-06-22 04:45 | 合気道稽古日記
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